「拒む者への主の言葉」  04.03.21
                  ルカ13:31〜35

 創世記の天地創造の場面で繰り返されているのは、「そのようになった」との
言葉です。神の意図されていることが、確かにそのように実現していきます。
 神の救いの意図である主イエスの十字架も、確かに、そのように実現しました。

 ここで、ヘロデが主イエスの命を狙っているので、主イエスにここを立ち去る
ようにと勧める人が登場します。主イエスの身を案じての言葉か、脅しの言葉か
明らかではありませんが、主がエルサレムに進むことを止めさせようとしている
言葉です。
 それに対して、主イエスは「ご自分はエルサレムへ行かなければならない」と
おっしゃいます。それ以外は「ありえない」ともおっしゃいます。ご自分が、
人の罪を全て担って身代わりの死を遂げることは、神の愛による意図であり、
何ものによっても妨げられることのできないことだからです。
 神の愛の意図である人の救いの計画は、必ずそのようになるからです。
そして、人の悪意や善意の意図よりも、神の愛の意図が実現したことを私たちは
知らされています。

 この世の力や、悪意、罪を見せつけられています。それらによって神の御心が
妨げられ、実現されないかのように感じる事もあります。
 しかし、主イエスは「ありえない」と語りかけてくださいます。ですから、どんなに
心乱されることや、心配があっても、主の意図が実現することを疑わないのです。

 「雌鳥
(めんどり)が雛を羽根の下に集めるようにしてきたのに、それを拒んできた。
それで、おまえたちの家は見捨てられる」とおっしゃいます。
これまで神さまに包みこまれ、愛されていることを確認してきた家(エルサレム、
神殿)は、見捨てられるのです。これは、神が人を見限ったということではありません。
神の愛の意図は、妨げられません。 
私たちを包み込み、守り、憩わせる場所が
変わるのです。


 違う場所で、神の愛を確認し、憩うのです。
 それが、十字架です。拒む罪をも取り除かれる十字架のもとで私たちは、
「十字架のもとぞ、いと安けき」(讃美歌262)と歌えるのです。